(ハンター愛が爆発してかなりの長文になってしまいましたが、あきれずお付き合いください。)
ハンテリアン博物館
ハンテリアン博物館はロンドンにある、王立外科医師会の建物内にあります。
現在建物が全面改装中で、ハンテリアン博物館は閉鎖中です。
2020年秋に再オープン予定です。
18世紀に集められた3500点を超える人間や動植物、臓器のホルマリン漬け、シャム双生児などの標本や、手術用の器具などが展示されています。
小さいながらも、ぎゅっと詰まった展示の数々に、時間を忘れて見入ることうけあいです。
右は、筋肉などの組織が骨に変わってしまい、関節が固まり動かなくなるFOPという難病の39歳の男性の骨格標本です。骨に変わってしまった部分がわかりやすいように、後ろ向きに展示されています。
左にあるのが、身長が約2.3mもあった「アイルランドの巨人」ことチャールズ・バーンの骨格標本。
巨人症でアイルランドからロンドンへ出てきて、見世物小屋で働き、人気者になりました。
しかし、いつまでも人気は続かず、酒浸りとなり1783年22歳の若さで亡くなってしまいました。
このバーンの骨格標本がどうしてここに展示されているかは、後ほどたっぷりすることにして…。
この展示品の多くは、解剖学者、外科医、博物学者と3つの分野で活躍し「近代外科医学の開祖」と言われるジョン・ハンターが収集し標本にした物です。
ハンターは標本のコレクターで、欲しいものがあれば手段を問わず、集めに集めまくり、標本にした数は約1万4千点という膨大なものに。
イギリスで1,2の腕のいい医者だったので、稼ぎは大変多かったのですが、収集の為に全て使い、いつも金欠。死後残ったのは借金と標本だけ。
収集した標本は自宅の別棟で博物館を作り公開していました。
この博物館に収蔵されていたコレクションがハンターの遺言により政府に売却され、王立外科医師会に管理が任されます。
残念な事に、第2次世界大戦の空襲で、コレクションの多くが破壊されたり、燃えてしまいました。戦争の被害を免れたコレクションが、今もなおハンテリアン博物館で展示されています。
19世紀中頃のハンテリアン博物館
ハンテリアン博物館は、ダーウィンやナポレオンなども訪れる程の博物館でした。比較解剖学の
大きな展示室で、中央奥の少し右の方にチャールズ・バーンの骨格標本があります。
破天荒で型破りの天才ジョン・ハンター
ジョン・ハンターは解剖学者、外科医、博物学者と色々な分野で功績を残し「実験医学の父」「近代外科学の開祖」とよばれ、破天荒で型破りな天才でした。
解剖学からスタートし、超一流の標本技術者になります。
その後、歯医者や医者となり画期的な手術や実験をして、成功をしただけではありません。教育者としても優れていて、種痘を開発したジェンナーなどたくさんのの弟子や生徒を育てました。どこからどう見ても、立派な医者ですが…。
では早速生い立ちから始めましょう。
ジョン・ハンターの幼少時代
1728年スコットランドグラスゴーの農家の10人兄弟の末っ子として生まれました。
勉強嫌いで、植物や動物に興味を持ち自然観察が好きな子供だったそうです。
20歳になったハンターは大工になり、手先の器用さで頭角を現し出しますが、仕事場が潰れてしまいます。そこで、先にロンドンへ出て、医者として成功をしていた10歳上の兄、ウイリアムを頼り、ロンドンへ旅立ちました。
助手、解剖技師として大活躍したジョン・ハンター
ウイリアムは「解剖教室」なるものを開いていました。
解剖教室は標本を見て学ぶだけでなく、実際に解剖をするというものでした。実際に解剖ができるということで大変人気がありました。解剖教室の手伝いと解剖に使う死体調達役として、ジョンを呼び寄せたのです。
ジョンは解剖助手としてキャリアをスタートします。
持ち前の器用さで解剖技術はぐんぐん上達し、半年後にはウイリアムが教えることは何もなくなり、解剖や標本作りではウイリアムを超える技術をもつようになります。
1年後には標本作りや解剖をを全て任されました。標本に色を付ける技術は1級品でした。ジョンは死体の調達だけではなく、標本制作、講義の補助、ついには講義代行までこなします。
解剖教室では実際の死体を使っていたのですが、使われる死体の調達は、どうなっていたかというと…。
死体を切り刻まれたりすると、最後の審判で復活できないと信じられ、死体を解剖することに強い抵抗感があり、検死などが少なかったので、メインは処刑された人の死体。数が少なく奪い合いとなり、なかなか手に入らず、正規ルートでの死体は慢性的に不足していました。
そこでハンターが、死体泥棒から死体を仕入れていたのです。
16世紀頃から死体盗掘人がいて、貧困者用の墓地で埋葬さればかりの遺体を掘り起こして盗み、塩水の入ったタルに入れ運んでいました。
酒好きで、気取らず、アイルランド訛りのハンターは死体泥棒から大変気に入られていました。たまにハンター自身も墓泥棒に混じって仕事をしていたそうです。そのおかげか、年齢や体格、妊婦が欲しいなどの注文通りに死体が入荷することができたそうです…。
ロンドンに来た翌年、ウイリアムはジョンの才能を感じ、死体の状態が悪くなるので解剖が難しくなる、夏の間の学校の休みを利用して、高名な医者チェゼルデンとポットの元で外科修行をさせます。そこで最先端医療と「伝統などよりも観察と実験を重んじる。無駄な手術をしない」などの事を学びます。
1754年には実習生になり、患者を治療することができるようになりました。以後約40年に渡って患者の記録を取り続け「ジョン・ハンターの症例記録」として後の人々の貴重な資料となりました。
また、一般教養が欠けていたので、オックスフォードにも通わされましたが、たった数ヶ月で嫌になり、辞めて帰ってきてしまいました。
朝4から解剖の講義の準備をし、終わると解剖と標本作り。助手をしていた12年間にハンターは数千体の解剖をしたと言われています。
解剖では味覚も利用し、胃液や精液を口に含み、味について詳細な記録を残しています。
夕方になるとウイリアムの講義を受け、人目を忍び深夜に死体泥棒からの死体の受け入れ。寝る間を惜しんで働きました。
解剖教室の講義や実演をしながら、生きている人間の機能を知る為の動物実験や、標本作りに熱中します。しかし1760年、32歳の時に肺炎になりウィリアムの解剖教室を辞めました。
ジョン・ハンターの軍医時代から名声を得るまで。
1761年に軍医になり約2年間従軍します。
沢山の銃創患者を切らずに治したりして活躍し、派兵先の島の病院長に出世します。戦況が落ち着いて暇になると、魚やトカゲなどの解剖や、実験をして過ごしました。この頃の画期的な銃創患者への治療の実績が認められたのもあり、晩年になって外科軍医総監に任命されることになります。
退役後は外科医の仕事に就くことができず、ロンドン1の歯科医のアドバイザーの仕事を始めます。当時は医者の中で最下層の歯科医でしたが、安定収入を得るのにはもってこいでした。
子供の歯を抜いて貴族の虫歯に移植したり、色々な助言をし、探究心全開でのめり込み「ヒト歯の博物学および歯疾患の報告」という論文を発表し、名を上げました。歯科の仕事を続けながら、外科医の仕事を始め、徐々に客を増やしていきます。
外科医の仕事で順調に稼げるようになった1765年、アールズコートに別荘を購入します。
犬や豚牛などの家畜からシマウマやライオン、ヒョウなどの猛獣まで飼われていて、家の前を通る近所の子供達を喜ばせました。
牛とレスリングをして殺されそうになったり、つがいのヒョウが鎖を切って逃げ出した時には、首をわしづかみにして捕獲するなど危険な事もありましたが、自然が豊かで大好きな動物達に動物に囲まれ、好きなだけ実験ができる有意義な毎日だったのです。
この邸宅でのハンターが「ドリトル先生」のモデル一部とも言われています。
生きた動物の観察や実験をし、 地下の実験室の大きな釜やy桶で死んだ動物や人間を解剖し、茹でて骨にして標本を作っていました。家の前の溝には、骨や解剖の残骸が何年も放置され、悪臭を放っていました。
解剖学と博物学の功績が認められ、1767年に兄ウイリアムより先に王立協会の会員になり、翌年にやっと正式な外科医組合の会員となります。
ジョン・ハンター生涯の伴侶『アン』
少しさかのぼって1761年、ジョンが従軍外科医をしていた頃、同じく従軍外科医をしていた、ロバート・ホームの目の治療を行い、知り合います。
ローバート・ホームには美女で詩人として注目を浴びていた、アンという娘がいました。
戦争が終わり2人が帰国した年に、ハンターはホームの自宅に招待され、アンを見初めます。
そこそこの稼ぎがあり徐々に評判も良くなってきていたハンターでしたが、文学には興味がなく、身なりにも気を使わず、スコットランド訛り丸出しで、アンの住む上流世界とは全く違うものでした。
1764年、ロバート・ホームの娘アンが重病にかかり、ジョンに治療してもらいました。懸命な治療のおかげがどうかわかりませんが、その年にハンターとアンは婚約します。
しかし、収入が不安定だった為、1771年の結婚まで7年も時間がかかりました。
結婚式にはクック船長や博物学者のバンクスも出席しました。しかし、兄のウイリアムは「解剖学と結婚は両立できない」との考えがあったので、出席しませんでした。ハンター43歳、アン29歳でした。
ジョン・ハンターは教育熱心でたくさんの後継者を育てる。
兄のウイリアムのおかげもあって、1768年に聖ジョージ病院の常勤外科医になり、実習生が門下に入り実習をするようになりました。4人の常勤外科医がいましたが、ハンターの元の門下生は実習生の3分の2以上。大変な人気でした。
実習生は回診や手術などの際に大名行列のようにゾロゾロとついて回り見学します。まるで、白い巨塔の「財前教授の総回診です」のような感じですね。
教育熱心で自分の頭で考える医者を育てたかったハンターにとってこのやり方は物足りませんでした。そこで、自宅で実習生に向け無料講座を開き、後には一般の人も入れる有料の講座を開くようになります。解剖学、生理学、病理学と外科全般にわたるもので、特に大事にしていたものが生理学です。
「生命の基本原理」となる健康な時の体の働きや器官の機能、病気時の体の状態や治し方などを紹介し、それを元に生徒が自分自身で考える事を求めました。
毎年講義の内容が変わるくらいで当時は画期的であったハンターの講義は、もちろん合わない人も居ましたが、多くの人に今まで教えられた事を根本的にくつがえすような衝撃を与えました。
イギリスだけではなく、ヨーロッパはもちろんアメリカからも生徒が集まり、ハンターの教えに魅了されました。ハンターの生徒で、アメリカ初の医学校を作ったウィリアム・シッペンとジョンモーガンは死体の調達方法までマネして、学校が襲撃される事態を引きおこしています。
講義のノートを取ることは禁止でしたが、パーキンソン病を最初に報告したジェームズ・パーキンソンを始め、学生達に講義のノートはこっそり取られ講義内容は残されています。優秀な医者を多く輩出し、生徒達はハンターの考え方を受け継ぎ、外科に科学的手法を取り入れ、周囲に広め、医学の発展に貢献しました。
初めての弟子を取る。
1770年、ジョン42歳の頃初めての住み込み弟子を取りました。後に天然痘のワクチン、種痘を開発する21歳のジェンナー。
ジェンナーはハンターに惚れ込み、解剖や実験を共にし、助手などしながら、医学のみならず博物学者の考えまでどんどん吸収していきます。
また、上品で詩と音楽の才能があったジェンナーは、ハンターの妻アンのいい話し相手にもなりました。
ジェンナーはハンターの推薦で、キャプテンクックがエンデバー号から持ち帰った動植物の目録作成を手伝います。
能力を認められたジェンナーはクックの2回目の航海に植物学者として同行を求められましたが断ります。開業医していた時にカッコウの托卵(他の鳥の巣に卵を産みつけ、育ててもらう)を発見します。
医学だけではなく、ハンターの影響を受け博物学にも造詣が深かったのがわかりますね。
2人は大変気が合い、ジェンナーが1773年に故郷のバークレイに戻って開業医になってからハンターが死ぬまで手紙のやり取りは続きました。
ハンターはジェンナーに「戻ってこないか」と誘い、自分で交配した犬とジャッカルのクオーターの犬を送ったり、「思いついたらすぐにペンを取る相手は、きみ以外にいない」というほど信頼していました。
ジェンナーもハンターを慕っていて、牛痘について何度も質問したり、ジェンナーの息子エドワードjrの名付け親にもなってもらっています。
兄ウイリアムとジョンの確執
ジョンの兄ウイリアムは倹約家で質素な暮らしをしながらも妹の面倒をみるなど家族思いでした。
ジョンもウイリアムの助手からキャリアをスタートさせ、高額な謝礼を払い一流外科医の弟子にしてもらったり世話になりました。
一方ジョンも助手として手となり足となり支えるだけではなく、凄腕の解剖技師としても活躍しウィリアムの出世に貢献しました。ウィリアムの代表作の「人の妊娠子宮解剖図」に掲載されることになる妊婦の解剖の多くをジョンが担当しています。
協力関係にあったジョンとウィリアムですが、助手時代のジョンが作った標本や、2人で発見した功績ががウィリアムの物になっていた事に不満があり、お互いに頑固なところがあったので何度も衝突はしていて、徐々に仲が悪くなっていっていました。
ある日ジョンが珍しい標本をウィリアムに見せた所、勝手に持って帰ってしまった事に激怒し、ジョンは自分の発見をウィリアムが盗んだと告発し、2人の仲は死ぬまで修復される事はありませんでした。
ウィリアムが死んだ時遺言での沢山の人に遺産を分けましたが、ジョンには一切何も残しませんでした。
ジョンは講義の終わりに「諸君、もう一つ。君たちも知っていると思うが、我が国の解剖学がこうむった損失について知らせておきたい」と言い、両目に涙をためウィリアムの功績たたえました。
ジョンは仲違いはしていたものの、兄を嫌っていたのではなく、むしろ尊敬していたのです。
「ジキル博士とハイド氏」のモデルの家を建てる
1783年高級住宅街のレスタースクエア28番に4階建ての邸宅を構えます。
診察所、解剖教室、研究所。後には博物館としても利用されます。
出典:The study of anatomy in England from 1700 to the early 20th century
小説「ジキル博士とハイド氏」の家のモデルとなっているこの邸宅は小説のように表と裏の2つの面を持っていました。
画像の左側のレスタースクエアに面した正面から入ると待合室や診察室、住居など。貴族やお金持ちが診察の為に訪れ、妻アンの社交客の玄関口にもなりました。
中庭を通って真ん中の建物は講義の為の階段教室、2階は博物館。真ん中の建物を出ると、博物館に入りきらなかったクジラの骨格標本があります。ここまでは表の顔。
一番右のカールスストリートに面する建物は、入りきらなかったコレクション、住み込みの弟子や家政婦の住居、一番上の部屋は解剖室になっています。
そして、裏口には跳ね橋があり、毎夜到着する死体の入り口になっていました。
ジョン・ハンターが欲しがった巨人の骨
この肖像画は1786年、ジョンが58歳の頃描かれたものです。右上をみてください。とても大きな足の骨が描かれています。勘のいい人はもうわかりましたよね。最初に出てきた、チャールズ・バーンの足なんです。
ハンターは、自分の死後に家族が食べていく為、博物館を建てたいと思っていました。
アイルランド出身のバーンはロンドンに出てきて見世物小屋で働くようになると、たちまち人気者になりました。しかし人気も長続きせず、ロンドン子はあきて人気がなくなり、酒浸りになっていました。
バーンの死期がそう遠くないとおもったジョンは、人気者だったバーンの骨格標本が博物館の目玉にぴったりだと思い「大金を払うから死んだら体が欲しい」と、なんと、バーン本人に頼みました。
もちろんバーンは拒否しますが、ハンターは人を雇いバーンがいつ死ぬか見張らせます。死後、解剖され切り刻まれるのを恐れおののいたバーンは、死の淵で遺体は海に沈めてもらえるよう友人に頼み、亡くなってしまいます。
友人達は依頼を守り、棺を海に沈めました。しかし、この棺の中はバーンの死体ではなく、石が入っていました。ハンターが葬儀屋を買収し、友人たちを酔わせたすきに中身を入れ替えてしまっていたのです。
まだ色々緩かった当時でもれっきしとた犯罪です。発覚するのを恐れたハンターは、解剖もせず、すぐにバーンの為に用意していた大鍋で煮込み骨格標本にしてしまいました。
こっそり保管していましたが、バーンの死から3年後、人気肖像画家のジョシュア・レイノルズに肖像画を描いてもらう際、巨人の骨の前に座り、こっそり背景に忍ばせたのです。
「オレ実はバーンの骨持ってるもんね♪」的な自慢したい気持ちがあったはずです。
博物館で公開する2年前の事でした。
待望の博物館が完成。
1788年ようやく膨大な展示物の移動や整理が終わり、博物館の公開を始めることができました。
初めは博物館は年に2回公開され、厳選された招待客が見学することができました。目玉のチャールズ・バーンの骨格標本はもちろん、他にもキリンやクジラなどの珍しい動物や植物や人体標本、病気の標本など展示は1万4000点にもなりました。海外からも見学に来るほどの盛況ぶりでした。
展示はハンターが当時考えていた、生き物の根本原理にもとづき並べられていました。驚くべきことに、猿から人間への進化の過程の順に並べられた頭蓋骨までありました。これはまだ理解できる人はほどんどいませんでした。
ダーウィンが「種の起源」を発表する70年以上も前に、理論まではわかっていなかったものの、進化について気づいていたのです。
この博物館の展示物は死後、ハンテリアン博物館へ収められる事になります。
この頃のハンターは毎日5時か6時には起きて解剖。9時に朝食を取り12時まで患者を診察します。
病院や外来患者を4時まで訪れ、4時に短い夕食を取り1時間の仮眠を取りました。その後講義や実験をし、解剖の結果を口述筆記したりしました。作業は深夜1時2時にまで及ぶ事もしばしばでした。
日曜日には時々アールズコートの別荘へ行き、自然や動物とたわむれ息抜きをするという日々を過ごしていました。
体調は万全とは言えず、晩年まで苦しむ事になる狭心症に悩まされ始めていました。
お金持ちからはたっぷり、貧乏人からはちょっぴり
ハンターは医者として成功し、国王ジョージ3世の特別外科医に選任されるほどでした。
ハンターの名声を聞きつけた著名人患者には当時の首相ウイリアム・ピット、アダム・スミス、哲学者デビット・ヒュームなどそうそうたるメンツです。貧乏人からは少ししかお金を取らず、金持ちから高い報酬をとりました。
手術の費用を工面するために、2ヶ月もかかってしまった夫婦にはほとんどのお金を返しました。「金持ちどもは暇だから待たせておけ、お前は働かなきゃいけないんだから」という名言も残しています。
滅多に見れない症例、実験台になってくれる患者などや特定の職業の人にには無償で治療をしていたそうです。
そんな患者の1人が膝窩動脈瘤の御者です。当時の一般的な治療は足の切断でした。
ジョンは足を切断せずに手術で治す方法を開発します。初の動脈瘤バイパス手術です。まだ麻酔がない時代、切開し目的の場所を縛る手術を5分でやってのけ、御者の足を治しました。この方法は「ハンター法」と名付けられます。
手術の費用は、死後の足。御者が天寿を全うし、別の死因で亡くなった後、足は標本にされ今もなおハンテリアン博物館に展示されています。これがその標本です。
出典:Signs & Symptoms of Translation
ジョン・ハンターの画期的で奇妙な治療や実験
18世紀の平均寿命は37歳。医療は、中世からほとんど進歩しておらず、「体液のバランスが悪いから病気になる」と考えられていました。
治療法といえば、体に傷を付け血を抜く瀉血、嘔吐剤、下剤、水銀などでした。
一部で手術も行われていましたが、悪い部分をとにかく切断するのみ。
消毒という概念もなく、手術の前に手洗いすらしないので、傷口から感染症にかかる事が非常に多かったのです。
手術の際も麻酔はなく、アヘンチンキという痛み止めを飲み、体を押さえつけられたり、縛られたりして痛みでもがくのを抑えていました。
そんな時代にジョンは、先ほどの御者の手術の他にも、100年も200年も先をいく画期的な実験や治療などを行います。
- 瀉血などの古い治療を否定
- 電気ショックで少女の命を救う
- 死刑囚の蘇生(失敗に終わったようです)
- 初の人工授精
- 淋病の人(実は梅毒にもかかってた)の膿を自分自身に植え付ける
- ニワトリのトサカに蹴爪や人間の歯を移植
- 銃創は切開せずに、そのままにして自然治癒力にまかせた方が予後がいい
- ガン以外はなるべく切らずに治した方がいい
- 小さく固めたパンを淋病治療の偽薬として与える
健康な臓器と病気の臓器を徹底的に比較する。どのように治療するのが最良か考える。動物で何度も実験をしてから、人間で実験をする。「確立されていたやり方を疑い、より良い方法の仮説を考えて、観察と調査と実験をして確認する。」という方法をとりました。これは、講義でも教えられます。
「自分の言ってる事は、現在最良だと考えている事であり、正しいとは限らない。」と言って、以前の意見に固執する事はありませんでした。
借金とゴタゴタ
ハンターは晩年には狭心症が急速に悪化し、すこぶる体調は悪かったのですが、通常の業務に加え、外科医組合の役員や、外科軍医総監など仕事も多く多忙な日々を送っていました。
1793年10月16日聖ジョージ病院の学生の受け入れに関して掛け合っている最中、狭心症の発作を起こして息を引き取りました。享年65歳。
遺言に従い、解剖が行われました。執刀医は義理の弟のエヴァラード・ホーム。遺言には、アキレス腱(一度切れて治癒していた)と、自分で悪いとわかっていた心臓を標本にするようにとの遺言もありましたが、ホームは守る事なく事なく閉じてしまいました。
ハンターは莫大な借金を残していました。葬式も質素で、アールズコートの家、レスタースクエアの家を手放し、家具など金目の物は全て売払わなければなりませんでした。息子は大学で医学を学んでいましたが、退学することになりました。
当てにしていたコレクションの売却は政府の財政が思わしくなく、買ってもらえることになるのは6年後でした。
ハンターの最後の弟子、ウィリアム・クリフトはハンターの遺産を管理していましたが、義理の弟のホームに全て引き渡すように迫られて引き渡してしまいます。クリフトは引き渡すのは嫌な予感がしたので、引き渡しを伸ばし、できるだけの論文を写しました。この時に書き写した物が後に大切になります。
ホームはハンターの未発表の論文を盗用してどんどん発表します。盗用のおかげもあり、大出世し、王立外科医師会の会長にまで上り詰めます。
盗用したハンターの資料類は証拠隠滅の為に焼いてしまいます。そのせいでハンテリアン博物館の目録や論文など貴重な資料が失われてしまいました。クリフトの予感は大当たり、書き写したものがなければどうなっていたやら。
政府に買い取ってもらったコレクションは王立外科医師会に管理が任され、ハンテリアン博物館となりました。
弟子のクリフトが学芸員に任命され、助手のリチャード・オーウェンと共に目録を作り、整理と管理をしました。
1855年ハンターはウエストミンスター寺院に改葬され、墓石には「科学的外科の創始者」と刻まれました。
グラスゴーにもあるハンテリアン博物館
グラスゴー大学の中にあり、ハンテリアン美術館や解剖学博物館などと共に「ザ・ハンテリアン」と呼ばれています。こちらは、兄のウイリアムのコレクションが元となっています。
ウィリアムは解剖学者、教育者、産科医としても大変成功しました。 当時の産科医ではナンバーワンで15回も王室のお産を監督する程でした。
肖像画のウィリアムを見ると、いかにも成功した上流階級って感じがしますね。
ウィリアムもジョンと同じくコレクターでした。というより、もともとウィリアムの収集癖がジョンにもうつったようです。ウイリアムは標本だけでなく、コイン、絵画、書籍など多岐に渡る膨大なコレクションの持ち主でした。その膨大なコレクションがグラズゴー大学に寄贈され、1807年にオープンしました。
ジョン・ハンターとハンテリアン博物館のまとめ
ハンテリアン博物館は変わり者の天才医者ジョン・ハンターの膨大な標本などのコレクションを展示しています。ジョン・ハンターの人となりを知ると、より深く展示を見ることができるハズです。